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東京地方裁判所 昭和43年(むのイ)308号 決定

主文

本件準抗告の申立をいずれも棄却する。

理由

一、本件準抗告申立の趣旨および理由は、別紙前記検察官山崎恒幸作成の昭和四三年五月二三日付準抗告及び裁判の執行停止申立書(添付の別紙を含む。)記載のとおりである。

二、よつて、右申立の当否について審究するのに、まず本件記録によれば、本件被疑者らが勾留請求書記載の被疑事実を犯したと疑うに足りる相当な理由があることが認められる。

三、つぎに、本件は拘留または科料にあたる事件であつて、被疑者が「定まつた住居を有しないとき」に該当する場合でなければ勾留することができないので、この要件を具備するか否かについて検討するのに、本件記録によれば、被疑者らは本件被疑事実についていずれも現行犯として逮捕されたものであるが、右逮捕当時から警察官および検察官の各質問、取調べに対し、また、原裁判官の勾留質問に対しても住居、職業、氏名および年令等について全面的に黙秘するほか、被疑事実についてもほとんど供述を拒否していることが認められる。そして、本件記録を精査しても、被疑者らの氏名、住居を認めるに足る資料はまつたくなく、被疑者らが前記のような黙秘の態度に出ているため、捜査官憲としても被疑者らの氏名、住居を明らかにすることがきわめて困難な状況にあることが推認できる。もつとも、被疑者らの弁護人となろうとする弁護士高橋融、同塩島節子両名ほか一名提出の身柄引受書および塩島弁護士に対する受命裁判官林五平の事情聴取の結果によれば被疑者らは定まつた住居を有するもののようであるが、右身柄引受書および事情聴取の結果によるも、被疑者らの氏名、住居は具体的には明らかにされていない。このように被疑者らにおいて氏名、住居を黙秘するため、裁判所、検察官においてその住居を認知しえない場合には、たとえ客観的には被疑者らに定まつた住居があるとしても、刑事訴訟法六〇条一項一号にいう「被疑者に定まつた住居を有しないとき」に該るものと解するのが相当である。

四、そこで、さらに進んで、本件被疑者らに関し、勾留の必要性があるか否かについて判断するのに、右のように被疑者らの氏名、住居が明らかにされないため、刑事訴訟法六〇条一項一号に該当すると認められる場合であつても、確実な身柄引受人があつて、被疑者の出頭確保のためのてだてが講じられているときには、かならずしも被疑者を勾留するまでの必要性はないものと解されるところ、前記弁護人になろうとする弁護士両名ほか一名作成の身柄引受書によると、同弁護士らは、被疑者らに対して公訴提起がなされた場合、起訴状謄本の送達および公判期日への出頭確保の点については、責任をもつてこれを履行する旨を約しているので、少なくとも裁判所との関係においては、現在のところ、本件被疑者らを勾留するまでの必要性はないものといわなければならない。

もつとも、右身柄引受書は裁判所への出頭確保については、前記弁護人となろうとする弁護士らにおいて責任をもち、引き受ける旨を約するのみで、検察官の出頭要求があつた場合の出頭確保の点については、何ら触れるところがなく、受命裁判官林五平が事実の取調べ(刑事訴訟法四三条三項、四項)の一環として前記弁護士塩島節子に事情聴取を行なつた際にも、同弁護士は検察官から弁護人らに被疑者らに対する出頭要求の通知があつた場合には、その旨を右被疑者らに連絡することは約束するが、それ以上のことは引き受けかねる旨を述べているのであつて、もし、この点の保証なしに氏名、住居不詳のまま本件被疑者らを釈放したならば、検察官の取調べ権の行使が事実上不可能になり、捜査が中絶するのやむなきにいたるおそれもないではない。刑事訴訟法一九八条一項、二項によれば、被疑者は検察官の取調べに際して何ら自己の意思に反して供述する必要はないのであるが、検察官は犯罪の捜査をするについて必要があると認めるときは被疑者に出頭を求め、これを取り調べることができるのであつて、さらに同法一九九条一項によれば、拘留または科料にあたる罪であつても、被疑者が正当な理由がなく右の規定による出頭の求めに応じないときは、これを逮捕することができるとされているのである。したがつて、被疑者に確実な身柄引受人あるいは確実な連絡先があるということから、氏名、住居不詳のままこれを釈放した結果、検察官において右の身柄引受人ないしは連絡先を介して被疑者に対し再三にわたつて出頭要求を行なうも、被疑者においてこれに応ぜず、結局、検察官において再逮捕を余儀なくさせられるというのであれば、現時点においても、すでに勾留の必要性があるといえようし、さらに、その場合、被疑者の氏名、住居が不詳のため再逮捕をしようにもこれが不能となり、あるいは著しく困能となるというのであれば、勾留の必要性は一層強まつてくるものと考えられるのである。

しかしながら、本件事案は被疑者両名が共謀のうえ電柱に管理者の許可なくみだりにポスター一枚を画鋲で貼布したというだけのものであつて、事案そのものはいたつて軽微かつ単純であるし、しかも被疑者らはいずれも現行犯人として逮捕され、その場に残された、あるいは携行していた証拠物はすべて押収されているのであるから、構成要件該当の具体的事実そのものに限つていえば、事実は明白かつ証拠十分であり、とくに被疑者をこれ以上取り調べる必要はほとんど見当らないといつても過言ではない。もとより、起訴前の段階においては捜査の必要性の有無に関する検察官の判断は十分尊重されなければならないし、本件についてみても、検察官としては、たとえば被疑者両名以外の共謀者の有無、本件ポスターが貼布を予定された何枚かの中の一枚なのか、すでに何枚貼つたのか、また、犯行の動機、共犯者同志の相互関係、あるいは平素の行状勤務ぶり等を捜査し、事件の全体を把握するのでなければ、起訴すべきか否かあるいははいかなる求刑を盛るべきか等について結論を出すことができないのかも知れないが、本件被疑者らが明らかに供述を拒んでいる以上これらはむしろ被疑者らの取調べ以外の方法によつて探知するべきであり、仮りに本件被疑者らを勾留してみたところで、被疑者らが黙秘している場合には、やはり被疑者取調べ以外の方法によらざるを得ず、身柄を釈放した場合とことは同じ結果になるのである。また逆に、勾留によつてこれまで黙秘を続けてきた本件被疑者らが氏名、住居を打ち明け、あるいはさらに進んで右のような事柄についてまで供述したとするならば、それはあるいは勾留に耐えかねて供述したのではないかという疑いを生ずるおそれもある。裁判所としては、検察官に被疑者に対して取調べを行なうために、その機会を与えるということを十分考慮しなければならないが、勾留の必要性の判断を通じて、このように勾留が被疑者の供述を引き出すために意識的、無意識的に利用されるような虞れのある事態を回避することになお一層の意を砕かなければならないのである。なるほど、被疑者が単に供述を拒んでいるというだけでは、刑事訴訟法一九九条一項但書の出頭の求めに応じない「正当な理由」がある場合とはならないと解されるし、黙秘している場合であつても、検察官の説得によつて被疑者が意を翻えし、任意供述することも考えられないではないから、供述を拒否しているからといつて、直ちに検察官に被疑者取調べを断念すべきだということにはならないが、本件被疑者は五月二〇日午後九時三〇分に現行犯逮捕されてからすでに相当時間身柄を拘束され、その間、司法警察員、検察官には本件被疑者らを説得し、氏名、住居その他の事項を供述させるための相当の機会がすでに与えられていたというべきであり、それにもかかわらず被疑者において供述を拒否している事態において、検察官にさらに被疑者取調べの機会を与えるという意味で本件被疑者らを勾留することは、検察官に被疑者取調べの機会を与えるだけにとどまらず、検察官にとくにそのような意図がないとしても、結果において被疑者の供述を引き出すために勾留を役立たせることにもなりかねないのである。

以上の本件事案の軽微さ、一応の証拠収集が終了していることあるいは被疑者が黙秘する態度に出ていること等の諸点を勘案するならば、氏名、住居不詳のまま本件被疑者らを釈放する結果、検察官の被疑者らに対する取調べが相当因難になるとしても、なお、これは勾留の必要性を充足させるものとはいえないと解されるのである。

そこで、さらに本件被疑者らに対する勾留の必要性を理由づけるに足るその他の事由があるか否かについて検討するのに、まず氏名、住居、生年月日等不詳のまま、身柄を釈放した場合、本件被疑者らについて公訴を提起するに足るだけの被告人の特定ができるかという点であるが、この点については、当裁判所としては、たとえこれらの点が不明であつても、性別、人相、体格、指紋、顔写真等によつて十分特定されうるものであり、かかる方法によつて被告人を特定し、公訴提起が行なわれた場合には、前記弁護人となろうとする弁護士らにおいてその旨の連絡のあり次第、本件各被疑者を裁判所に同行し、裁判所書記官による起訴状謄本の送達を可能ならしめる旨を確約しているので、有効なる公訴提起ならびに訴訟係属の成立の点については特段の支障をきたさないと解するのである。また、氏名、住居不詳のままでは、検察官において公訴を提起し、有罪判決を受けても、刑の執行が困難または不可能になる虞れがあるという点についても、前記のとおり、本件弁護人となろうとする弁護士らの身柄引受によつて、本件被疑者らの公判期日への出頭は担保されているのであるから、仮りに氏名、住居不詳のままでは有罪判決後に刑の執行が困難となる虞れが生ずるとしても、それは公判の段階で勾留を考慮すれば足りることであり、有罪、無罪はおろか、起訴、不起訴すら決しない現段階において、とくに憂慮しなければならないほどの事由とは認められない。したがつて、これをもつていまだ現段階における勾留の必要性を正当づける事由と認めるわけにはいかない。〈以下省略〉(寺内冬樹 早川義郎 林五平)

〈別紙省略〉

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